毒親育ちが毒親化しないための自制ブログ

毎日ギリギリの育児です。タイトル通り。

毒親育ちの恋愛④

 旦那様と出会ってなんやかんや付き合って結婚する話の続きです。人を好きになることも好かれることも怖くて諦めてしまう毒親育ちの方々にこんな事例もあるよとの、ご参考までに。(こっ恥ずかしいのであまり事細かくは書きませんよー!)


 家族ごっこ


 母親が他界したのは夏でした。管理人はバイト中に連絡がきて、大学にレポート出してから帰りました。

 死に目に会えないのは親不孝なのかな

 ぼんやり考えながら帰って、第一発見者となってしまった妹に声をかけて休ませました。母親は自ら命を投げ出していました。
 父親もぼうっとしつつ叔父と色々な手続きをして、私は母親の顔をさっと見ただけで、家の片付けに回りました。
 姉が10年振りに帰ってきたものの、太り過ぎて別人かと思いました。
 小さな葬式を終え、訪問客もいなくなった数日後の夜、彼の人に母親が他界したことだけを伝えました。彼の人は「そっか」と一言だけ。管理人も母親の話題はそれきり出すことはありませんでした。

 母親の他界についてはまた改めて文章にしたいと考えております。ただ先にひとつ言えることは、彼女の死について、悲しみより安堵が勝ってしまったということです。死を本気で願ったことはなかった。けれど、親しい人間にも関わらず、管理人には襖一つ挟んだ向こう側の彼女が亡くなっても頬は乾いたままなことに、涙すら偽装できなかった当時はそれなりの衝撃だったのだなぁと思います。

 葬儀後は父親も姉もギクシャクしながら家族の再構築を目指してました。

 「許さんでいい。すまなかった」

 父親が長年母親を追い詰めたことに後悔しそう漏らしてました。懺悔を子どもに聞かせて自己満足に浸るつもりかなくらいの感想しか持てません。妹は父親に懐いてましたし、ずっと帰って来なかった姉もこの最近の家の事情なんて知りません。管理人は腸が煮えくり返る思いを笑顔で隠しました。無駄なことをコレに言うのは自分のプライドが許さなかった。何一つ許す許さないも明言することなく笑顔で家族ごっこに付き合いました。

 その状況がストレスで、勤め始めた自分は安い給料をほとんど家に入れつつ、残ったもので休日はゲーム。父親とも姉妹とも会話のない日々を過ごしてました。
 状況が変わったのは彼の人の卒業です。疲れて仕事を辞職した管理人でしたが、彼の人が同棲を提案してきました。このころの管理人のぶっ壊れについては「ある日プツンと切れた日」をご参照ください。
 彼の人との同棲に浮ついた私は、彼の人に

 「ご挨拶をしたい」


 と言われるまで黙って出ていけばこっちのもんだと思ってました。このボロっちい小屋に彼の人を招くのも、父親と接触させるのも恥ずかしさと嫌悪感がありましたが、筋は通すことにしたのです。


続きます。