毒親育ちが毒親化しないための自制ブログ

毎日ギリギリの育児です。タイトル通り。

毒親育ちの恋愛③

 旦那様と出会ってなんやかんや付き合って結婚する話の続きです。人を好きになることも好かれることも怖くて諦めてしまう毒親育ちの方々にこんな事例もあるよとの、ご参考までに。(こっ恥ずかしいのであまり事細かくは書きませんよー!)


 沢山不安を与えた



 大学にいけばもっと広い視野で新たな人間関係を構築できるはずだったんですがね。
 彼の人は告白してくれました。卒業後に。一度は言葉を濁して「母親が病気で」付き合ってデートとかできないと断わったんです。ズルい言い方でした。どうしても私からは縁を切れなかった。試すような言い方して、結果彼の人を縛り付けました。付き合い当初から遠距離で、連絡さえこちらからコンタクトすることもなく、3ヶ月放置したこともあります。それでも根気よく待ってた彼と、長期休暇の時に遊んだり話したり、嬉しい反面どうしても

 (別れるならそちらから手放してくれ)

 なんて身勝手なことを考えてました。彼の人が病気になっても気軽に看病なんかいけない。バイト代もカツカツで、妹が高熱出ても医者に行かせることもできなくて。親は何故か私の所在地を管理したがっていて、ストレスは積み上がり酷く情緒不安定でした。

 もっとお金があれば彼の人に会いに行けた
 もっとお金があれば母親を病院に行かせられた
 もっとお金があれば妹は苦しまなかった

 苦しくて苦しくて、あの頃は辛くて自分のことだけで精一杯でした。彼の人を考えたらこちらから解放すべきなのにそれもしない。申し訳なかった。

 そんな大学生活も終盤に、大きな地震が起きました。大学と実家があるのはその震源地近くで。そして彼の人の大学は他県であっても海沿いで。
 死んでもいいとさえ思っていたのに、いざ経験したことない揺れでタンスが倒れてくると、まだ死にたくない!!生きたい!!と願ってました。

 余震の続く中、彼の人から連絡がきました。

 「無事か?!」

 その声を聞いた時、心底ほっとしたんです。あちらも生きてる。ただそれが嬉しかった。
 しばらくは県外県内の移動はままならず、3ヶ月くらい会えませんでした。やっと災害後に会って、

 「生きてたぁ」

 抱き締めてくれて、ほっとした声で生存を喜んでくれて、ずっと出なかった涙が出ました。その時に、もうどうしても別れられない、親がなんと言おうとたとえ彼の人に迷惑がかかろうと無理、欲しいのだと自分の中の欲望を認めたのです。
 利口ぶっても傍観者気取っても結局自分から別れなかったのは欲しかったからなんですね。未だにコレは愛情でなく依存じゃないかと自身に問うことがありますが、彼の人がいなきゃ○ぬー!とかGPSつけて携帯見るー!とかは思わないのでセーフということで(汗)

 彼の人の卒業まであと最短3年。その間になんとか実家と縁切りするかと方法を模索している中ーー


 母親が他界しました。


 続きます。